chainsawmanfanのブログ

チェンソーマンファン

五時間半

べんきゅうう

昨日の続き(今日は2023/12/26)

自己憐憫についてわりと厳しい記事を書いていたが、それだと自己憐憫について、僕の実感としては正しく認識しにくい感じがするので、追記。
自己憐憫している当事者は、その自己憐憫のループから抜け出すのはかなり難しいという話を昨日した。その理由は本人の考えにあるというようなことを昨日言ったが、それはズレているとおもっている。その理由は環境によるものが大半だと思う。
例えば、ネットや現実で接する多数の人間が自己憐憫に陥っているだとか、苦しい環境そのものや依存症だったりとかが環境の要因に当てはまる。
その環境を打破することが自己憐憫、ひいては苦痛から抜け出すための重要なヒントであると思う。

勉強を長期にわたって止めないために

さっきの記事に対する補足。
勉強をし始めて調子が良い時ってつい、調子が悪くて勉強をやめていた頃に感じていたこととか、ドツボにハマってしまった原因とかをわすれてしまう。
なので、いまから忘れないようにメモする。
なぜ勉強をやめていたのかというと、勉強が真に迫る重要性を帯びなくなってしまったから、度重なる怠惰な自己との直面に気が落ち込んでしまったから。
前者の原因は、勉強の価値が、ツイッターやその影響で始めた読書などによって相対化されてしまったから。これは何となくの考えなのだけどとても強力で僕を捉えて離さなかった。
後者の原因は、うーん、難しいが、一つ形を与えるとすれば、安易に自分の能力を見切ってしまったこと。自分は勉強のできない人間なのだという考えを疑うことをせず自己憐憫に陥ってしまっていた。僕の自己憐憫は、勉強できない人間なのだと疑う余地があることを認識しながらそれが疑いえないことの根拠を自己憐憫に求めるという構造がある。メタを意識しながら、自己憐憫というある種の温もりを得るためにそのメタを無理やり自己憐憫内で完結させようとする。自己憐憫は、自己憐憫をしないという立場を認めない。自己憐憫が姑息な手段だと思うのは、社会で受け入れられている立場を採用して、自分を正当化しようとするところだ。その当人にとっては、じぶんの行いは根拠に満ち溢れたものとして確定してしまうのだ。
ねむいのでまたあした