chainsawmanfanのブログ

チェンソーマンファン

つれづれなるままに2023/12/14

昨日に引き続き受験の話。自分は普段曲は聞かず、聞いてもアニソンくらいなのだが、結構有名人の歌手の宇多田ヒカルがこんなことを言っていた。
「奇をてらって周りと違うことして目立とうとしても、それは他の人たちに対するリアクションに過ぎない。本当の個性、オリジナリティーは、普遍性の中に見い出すものだと思う。」
第一印象は、なるほどな、と腑に落ちるというか、腑に落とされる感覚。宇多田ヒカルがどういう意図でこの言葉を言ったか知らないが、僕は同調圧力的な風土を感じさせる言葉だなと思った。というのは、このツイートを受け取っていいねをしている人は、奇をてらっているような人間を気持ち悪いと感じていると思う。社会に備わっているルール、規範を捻じ曲げたいがために変わった行動をとる人物。多くの人が、それを嫌がる。しかし僕は、そういった人間が必要と思う。日本に限った話ではないが、ある特定の閉鎖的な言語空間で、その域内の人々だけで共有される規律があるとする。そういったところでは、人々の使う言葉がルールを作り、そのルールが当たり前とされていき、ルールがさらに言葉や行動を規定していく。だから、域内の人々は、彼ら自身を客観視しにくい。自分たちが間違ったことをしていても、外から声をかけられることもなく、内からは当然声を上げる人もいないだろう。
つまり何が言いたいかというと、奇をてらう人物は、組織や社会で当たり前のように共有されているコードに対し、疑問を呈し、潜在している問題を明らかにする存在かもしれないということだ。
確かにこの意見が適用できない場面も存在するだろうが、奇をてらって目立つ人物を頭ごなしに否定するのは危険と思う。
なぜこの話をしたのかというと、昨日の投稿が単に奇をてらったつまらない受動的行動とみなされるのがいやだったから。勉強をしたくない若僧の戯言だ!と一蹴されたくなかったから。。。
しかし、宇多田ヒカルの言葉をまたじっくり読み返してみると、何かまた違った響きを伴って現れてくる。お前は無力なんだ、と諭されているような、「普遍性」に対抗しようとしている僕の怒気をなだめるような感じがする。これは、宇多田ヒカルの諦めなのではないかと思う。かなり無理やりともとれる解釈だが、もしかすると宇多田ヒカルもこの種のあきらめを経験しているかもしれないし、たぶん、多くの人間が経験してきたことなのだろう。かのソクラテスは、アテネの法に屈して死んだ。ソクラテスが亡命しなかったのには、勿論神の命令を受け入れようという高潔な意思もあったかもしれないが、諦めの気持ちももしかするとあったのかもしれない。その弟子プラトンも、アテネに殺されないよう注意深く哲学などの思索を繰り広げたという。だからというわけではない、決してそうではないと言いたい。しかし、僕も勉強をしなければならない。最後にマルクスアウレリウスの言葉を引用する。
「克己の精神と確固たる目的を持つこと. いろいろな場合,たとえば病気の場合でさえも,きげん良くしていること。優しい処と厳格なところがうまくまざり合った性質。目前の義務を苦労に感じてやらぬこと。」