chainsawmanfanのブログ

チェンソーマンファン

勉強をして大学に行く意味

前にも述べましたが勉強をしていません。広義の勉強はしているかもしれませんが、、
しかし、受験勉強は僕が絶対に向き合わなければならない課題です。大学入試に合格して志望大学で学ぶため、楽しいキャンパスライフを送るため、モラトリアムを延長するため、社会で一人前と認められるため、、、
理由は色々ありますが受験は恐らくほぼ確実にします。そんなに重要なことなのに、どうして避けているのでしょうか。いや、それよりも今話題にすべきは、どうすれば勉強をするようになるかということです。一つの解決策として、受験勉強をする意味、そして大学に行く意味、を一つ一つ考えて納得するという方法を考えました。恐らく今からなされる議論は一か月後には忘れているでしょう。しかし、僕のような性格の人間にとっては、今納得することが必要なのです。そうしないと、なんの踏ん切りもつけられずに、ズルズルと勉強をしないまま今年度を終えることになる気がします。ついでに、一か月後にこの記事を見る自分に忠告しておきます。ここで出された結論は暫定的で不断に更新されなければならないということです。そうでなければ、風化して、曖昧さの中で勉強や大学に対する熱意、哲学も失われていくと思います。
それでは、まず受験勉強をする意味とはなんでしょうか。これは僕の中で結論が既に出ています。それは、大学入試を突破するための手段であるが、それ以上の意味を求められるべきで、実際に求められてもいるということです。受験勉強は、大学で学ぶこととあまり関係がない、直接関係することはあまりないような気がします。そこについてはあまり知識はないので確定的な結論は出せないのですが、例えば浪人して一年を追加してまで受験勉強をすることは大学での勉強になんの影響も与えないように思います。
そこで、受験勉強をする意味というのを、別の観点からひねり出すことを考えました。それは、受験勉強とは、繰り返しの苦しい勉強、面白くない事について勉強する際の知的体力、忍耐力をつけるための修行であるということです。面白くない事はこれからの人生でいくらでも出てくると思います。というか、今の社会では、面白くない事に耐えるマゾ的な人間が楽しさを享受できる構造になっていると思うし、それこそが人間の幸せのような気もします。なんだかキリスト教道徳のような、清貧に生きる事が幸せだというような価値観を披露していますが、このことに関して深く立ち入るのはやめておきます。しかし、最近本当にそう感じているのです。
そして最後、大学入試を突破する以上の意味を実際に求められているという部分ですが、これは、周りの人間が僕に対して向ける考えのことです。僕は受験生ですから、受験勉強をすることが義務だと周りの人間が考えていて、僕がそうすることで周りの人間は心地よく感じるだろうということです。僕は対外的には受験生だと表明しているから、周りは当然受験勉強をするものだと考えているわけです。だから、周りの人間と齟齬なくくらしていく為にも受験勉強をすることに重要な意味があると考えます。
次に、大学に行く意味について考えます。僕は、まず第一に、大学とは勉強をする所だと考えています。大学に行って勉強をしてみたいと思っています。高校生のする勉強より、なんとなく深い勉強をして、いい気になってみたい。大学で出来た友人と読書会をして分厚い哲学書を紐解き、活発に自分の意見を表明したり、その意見を批判されて気付きを得たり、他人の意見を批判的に検討したり、、そういうことができれば本当に楽しいだろうなあと、心底思います。そういうことをするためには、自分でも気乗りはしないのですが、偏差値の高い大学にいかなければならない。これは何となくの考えなのですが、そういう意味でも受験勉強をするというのは必要なのかなと、。勿論学歴厨のように、一つの凝り固まった物語に翻弄されるのは失敗したときの代償が大きいので良くありません。まあしかし要するに、僕のあり方は学歴厨と言っても過言ではないし、全くその通りだと思います。その偏った価値観は僕の中にしかと存在するのだと受け入れてしまって、受験生の間は綺麗な範囲でその価値観を行使することを受け入れる。それが現実的な折衷案なような気がします。