chainsawmanfanのブログ

チェンソーマンファン

死について考える!

昨日、男の系譜という本をチラッとだけ読んだ。戦国時代から江戸時代、幕末にかけての、16人の男達についての随想集。ちらほら知らない人がいたが大半は小学生でも知ってる有名人で、織田信長の章を読んでみた。今手元に本がなくうろ覚えでかこうとしているため拙い文にならないか心配だが一旦踏ん張る。
織田信長を知らない人は一人もいないだろうから細かい説明は割愛する。
その織田信長について、彼の生きざまをよく表している歌がある。
人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか
この部分の意味としてはそもそも「人間(じんかん、又は、にんげん)」は、人の世の意であり、人の世における50年の意である。


また、「下天」は、三界における上天に対する下天のことで、欲界の天、六欲天を指す。この内に、最上の第6天 他化自在天(たけじざいてん)~最下の第1天 四大王衆天(しだいおうしゅてん)があり、最下の四大王衆天でも一昼夜は人間界の50年に相当する。


即ち、「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」は、つまり「人の世における50年は下天の内の最下の四大王衆天でも一日にしかあたらない。夢幻のようなものだ」という意味になる。この一節は天界を比較対象とすることで人の世の時の流れの儚さについて説明している。(wikipediaより


僕はこの言葉を小学生くらいの頃に大河ドラマ(軍師官兵衛だったと思う)で知って、カッコイイなと思ってよく複唱していたのを覚えている。
今でもこの歌をかっこいいと思う感性は変わっていないし、むしろより深く鑑賞する素地があるような気もする。
信長という人間は、ワンマンの社長であり、革命家であり、大胆かつ、鋭敏な政治的センスをもった策士でもあったようだ。戦国という今よりも血生臭い時代に、死というもの、己の死、他人の死も含めて、そういった物が身近に語られる乱世で、死を見つめ、死に見つめ返される緊迫の中生きた人間の感覚が上であげた詞によく備わっていると思う。
この本の著者の池波正太郎は、現代人が死と向き合わず、金や、一時的な快楽に従事することに警鐘を鳴らしている。僕は、この意見を老害の愚痴だと放り出さず、真正面から引き受けてみたいと思う。
死とは万人に待ち受ける宿命である。と仮定してみる。なぜ仮定かというと、sfの読みすぎで不老不死への全否定をするのが気持ち悪く感じられるからである。まあそれは一旦置いておくとして、死である。重々しく抽象的だが必然性をもって訴えかけてくる死というもの、倫理を薄くさらっただけの知識、意見になるが、確か、ハイデガーって哲学者も死について考えた人じゃなかったっけ。昨日よんだ知の技法入門という本で20世紀最高の哲学書はハイデガーの「存在と時間」だと編者の一人が言っていた。
死について考える。先ずは身近な例から考えてみる。この現実世界から私が抹消されること、死が来て、その後は分からないということ、死には抗うことができないこと、
そういえば、自省録という本で、マルクスアウレリウスがこんな事を言っていた。
「あたかも一万年も生きるかのように行動するな。生きているうちに、許されている間に、善き人たれ。」
この人は、ストア哲学を奉じていたから、死後の世界観について私たちと相容れないところがあるけど、僕がぼんやりと目指しているのはこういことのような気がする。
人の生は限られているのである。そういうものだと知った時に、不快に感じて、考えることを強制されるような感覚になる、ような気がする。例えば、道端で小鳥の死骸をみつけたとき。可愛くて美しいもの、季節の風物詩としてしか日常に登場しなかった生き物のグロテスクな死は、僕にとって死と直面し対話しあう「良い」機会なのかもしれない。
又は、身近な物の死骸でもいいかもしれない。使い古したパンツを親が汚いと言って捨てるとき、短くなった鉛筆をゴミ箱に投げ入れた後のむずがゆさ、違和感。
もしかすると、僕たちが死を意識して自分を見つめ直すきっかけは、その辺にいくらでも転がっているのかもしれない。その一瞬一瞬を大切にするだけでより善き生への変化がもたらされるのなら儲けものである。
よくわからない議論、記憶をさすらうような展開になってしまったが、なんとなくつかめた物はあったような気がする。